ふるさと納税のガバメントクラウドファンディング(GCF)サイト ふるまる

ふるさと納税で
夢をチカラに感謝をカタチに

ハンセン病の記憶を未来へ語り継ぐために、歴史ある建造物をこの地にのこしたい。 ふるさと納税クラウドファンディング(GCF)

[岡山県瀬戸内市]のふるさと納税クラウドファンディング(GCF)ハンセン病の記憶を未来へ語り継ぐために、歴史ある建造物をこの地にのこしたい。

期間 2018/12/05~2019/03/31

支援額 96,500円(目標額 500,000円)

支援者数 7

19%

お気に入り

ふるさと納税ガバメントクラウドファンディング(GCF)プロジェクト詳細

ふるさと納税ガバメントクラウドファンディング(GCF)プロジェクト詳細

皆さんは「ハンセン病」のことをご存知でしょうか?

ハンセン病は「らい菌」という極めて病原性の弱い細菌による感染症です。
感染しても発病することはまれで、現在では早期発見と適切な治療で、障害を残すことなく治ります。かつては同一家族の中で発病する例がみられ、遺伝病と誤解された時代もありました。
今日、日本を含む先進国では新たに発病する人はほとんどおらず、国内のハンセン病療養所にはハンセン病の治療をうけている方はいません。 しかし、多くの方が高齢となり、そのまま療養所での生活を余儀なくされています。
日本のハンセン病患者隔離政策の特徴として、当時は子供を持つことが認められませんでした。
その中にあっても力強く生き抜いてきた回復者等の人生を瀬戸内市の2つの療養所にある歴史的建造物を未来に向け保存することで、ハンセン病とは、を語り継ぎ、人類の抱える様々な偏見・差別の解消を目指したいと考えています。
ご支援を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。


ハンセン病療養所で人生の大半をすごしてきた方のインタビュー(1)
インタビュー 長島愛生園入所者自治会会長 中尾伸治 氏


▲収容桟橋を背に

中尾 伸治(なかお しんじ)氏 プロフィール
1934(昭和9)年、奈良県生まれ。13歳のときにハンセン病に罹患していることがわかり、1948(昭和23)年、長島愛生園に入所。2011(平成23)年、長島愛生園自治会長となる。ハンセン病の語り部として、来園者はもちろん小学校などを中心に各地に出向いての講演や交流活動を展開中。瀬戸内3園(岡山県瀬戸内市の長島愛生園、邑久光明園及び香川県高松市の大島青松園)が推進するハンセン病療養所の世界遺産登録を目指すNPO法人の理事を務めている。
 
------------------------------------------------------------------------------------------------

現在、長島愛生園入所者の皆様はどのような生活を療養所内でおくられているのでしょうか?
 
現在160人。ほとんど高齢者で平均年齢85歳過ぎ。社会復帰もできず、療養所の中で最後まで過ごす。今残っている入所者は愛生園で骨をうずめる。しかし、処遇は今までの生活の中で一番いいかもしれない。自由に出入り出来る。岡山まで自由に買い物に行けるから。
 
ハンセン病患者への隔離政策について
第二次世界大戦後に特効薬「プロミン」が普及し、ハンセン病は完治する病気となりました。しかし日本ではハンセン病患者を隔離する、らい予防法が廃止されたのは1996(平成8)年。
日本同様に隔離政策を行っていた諸外国と比べてもその廃止は遅かったと言わざるをえません。その原因はどこにあったのでしょうか?


プロミンが日本ではじめて使用されたのは昭和22年。私たちは、昭和26年~28年に予防法改正運動を始めたが、あくまで日本は終生隔離をつらぬいた。そのため、廃止が遅くなった。世界に比べて100年遅い。

収容桟橋についてですが、収容桟橋とはどのようなものでしょうか?
 
収容桟橋は来た当時は、患者だけが使えるものだった。愛生園の中に2つ桟橋がある。職員桟橋には患者は行けなかった。今の収容桟橋は愛生園の第一歩を記した場所です。
「解説」
島の療養所は、海で隔てられ、島との交通は桟橋と桟橋を結ぶ船によるものだった。多くの入所者は船で島に渡り収容桟橋から上陸した。入所時、家族や付き添い者はこの桟橋までしか入ることは出来ず、入所者にとっては社会や家族との別れの場所となった。
 
中尾さんと収容桟橋の関わりをお聞かせください。
 
あの桟橋を見たときは足が震えた。もう帰れないと思った。これで世の中とおさらばだと思った。


収容桟橋から愛生園に入った当時のハンセン病患者の皆様は、その後どこに行かれたのでしょうか?
 
回春寮へ行きました。
もともとは収容所と呼んでいました。ベットが10個あって診察したり、健康状態や他の病気が無いかをみた。1週間過ごした後 少年寮、一般寮へ行くことになる。

ということは、中尾さんも回春寮(収容所)で過ごされたことがあるのですね?当時の様子をお聞かせください。
    
14歳でここに来ました。桟橋から降りて回春寮へ行った。さみしくなった。その日の夜は誰もいなかった。初めて一人でだった。療養者が介護してくれたが、その人は包帯をしていて怖かった。泣きました。
お母さんが持たせてくれた巻きずしを食べました。泣いてばかりだったから早く少年舎へ連れていかれたんです。同じような子どもがいるから少しずつ慣れていき、普通の子どものように生活が始まりました。


▲回春寮

回春寮に担当者がいましたか?

その頃は患者が世話をしていたんです。責任者がいましたが、重症の人がやっていることもあり、子どもだった私は怖かった。
 
少年舎に入ったとき重症の子どもがいましたか。

私には分からなかった。できものができていた人がいましたが。
 
少年舎に居た人が今もいますか?

今いる人はほとんどそうです。

「解説」回春寮:
入所するとまず、収容されるところで、各種の検査や入所手続きが行われた。現金などを取り上げられ、消毒風呂への入浴、持ち物の消毒なども行われ、この建物の中で社会との隔絶を意識した人は少なくない。

監房についてですが、監房とはどのようなものでしょうか?なぜハンセン病の療養所に監房があるのでしょうか?
 
私も知らない。何でか分からない。反対に聞きたい。
療養所の中で監房と呼ばれる建物があるのはここだけ。(他は監禁室と呼ばれた。)当時の愛生園は監獄のような施設だった。
 
監房には、外壁があって中庭、監房という建物があった。最初から住宅の近くにあり、監獄からの声が近くの人に聞こえた。それぐらい近くに監房がありました。戒めのためにあったのだろうと思います。寒いところにあったものだから、入れられた人の中には亡くなった人もいる。そういうことで園内の秩序を守っていたのだと思う。


▲監房

当時、監房にはいったことはないと思いますが、中の様子はご存知ですか。
 
入ったことはある。板戸の囲いを入ります。外から見たらご飯を入れるドアがあって、中から6~7畳ぐらいの板の間で、トイレの上の方に小さい窓がありました。
 
なぜ監房は埋められることになったのでしょうか?
 
前の精神病棟が小さかった。でも燃えたので、精神病棟を建てるのに山を削った。その土を捨てるのに監房を埋めた。

皆さんから寄せられた寄附金は、収容桟橋の保全のための調査と監房を掘り返すための調査費用の一部として活用されます。その意義についてお聞かせください。
 

桟橋も監房も補修出来たらいいと思う。建物そのものが見られるようになったら当時のことが分かるんじゃないか。残したらどのぐらいかかるかな?と入所者の人が話していた。掘り起こしてもらえたらありがたい。
 
2013(平成25)年9月に長島愛生園とお隣の邑久光明園の関係者により「長島の世界遺産登録を目指す準備会」が結成されました。
結成の経緯とこれまでの取り組みの成果についてお聞かせください。

 
世界遺産の話の前に開園当時の建物を残す方法はないか、という要望を厚労省にしたが認められなかった。それでは、その建物を含め療養所を世界遺産として登録できないか?という話になり、今に至っている。


長島愛生園の現在 入所者 161名 平均年齢85.6歳、
納骨者数 3667柱

(インタビュー:平成30年10月12日現在)
撮影 写真家 西 岳海



ハンセン病を発病したことで偏見・差別にさらされ、過酷な生活を送った方が多くいます。
家族や社会とのつながりを断たれ、ハンセン病療養所に入所した方々の人生にふれて、ハンセン病問題とは何だったかのかを知ってもらいたい。



ハンセン病療養所で人生の大半をすごしてきた方のインタビュー(2)

インタビュー 邑久光明園入所者自治会
会長  屋 猛司 氏・副会長 山本 英郎 氏




屋 猛司(おく たけし) 氏 プロフィール
1942(昭和17)年、鹿児島県奄美大島生まれ。32歳のときに大阪大学でハンセン病と診断され邑久光明園に入所。1993(平成5)年に選挙管理委員長となり自治会活動にかかわるようになる。1999(平成18)年から邑久光明園入所者自治会長となる。瀬戸内3園(長島愛生園、邑久光明園及び香川県高松市の大島青松園)が推進する世界遺産登録を目指すNPO法人の理事を務めている。


山本 英郎(やまもと ひでお) 氏 プロフィール
1940(昭和15)年生まれ。1960年、20歳の時にハンセン病を発病し、京都大学で原田禹雄(はらだ のぶお) 氏から告知を受ける。同年、邑久光明園に入所。1979年の自治会選挙で指名され、副会長に抜擢される。就任直後から邑久長島大橋架橋運動が進展をみせる中、大きな役割を果たす。
邑久光明園入所者自治会会長を16期、副会長を9期務めている。

-----------------------------------------------------------------------------------------------

全国13の国立ハンセン病療養所には納骨堂があります。なぜ療養所という医療機関に納骨堂があるのでしょうか?
 (屋氏)
火葬場を含めて納骨が外で出来なかった。お金もなかったから。外島保養院時代には、お骨は火葬場の隣に穴を掘って埋葬していた。光明園に納骨堂が出来たのは昭和17(1942)年。それまではありませんでした。委託先から帰ってきた寮友から他の療養所には納骨堂があったと話があり光明園にも納骨堂を作るという動きが出た。どこの療養所も最初は納骨堂がありませんでした。
 
邑久光明園入所者の皆様は、どのような生活を送られてきたのでしょうか。
(屋氏)
私は昭和49(1974)年に入ってきたので、以前の事はわかりませんが、来た時は、入所者は15畳の大部屋にいました。私は、病棟での治療から1年半が過ぎて、病棟を出て、一般舎15畳の大部屋に降りました。
 
邑久光明園は、大阪にあった外島保養院が昭和9年の室戸台風により壊滅して、復興施設として長島に設置されたとお聞きしています。当時のことをお聞かせください。

昭和9(1934)年、台風にあって残された入所者が、松丘保養園(青森県)に50名、栗生楽泉園(群馬県)に98名、多摩全生園(東京都)に70名、長島愛生園(岡山県)に78名、大島青松園に(香川県)に70名、菊池恵楓園(熊本県)に50名、計416名が分散されました。昭和13年4月27日の開園式に入所者は1人もいませんでした。帰ってきたのは6月20日~7月9日にかけて309名です。
 
山本さんは、今年30周年を迎えた「邑久長島大橋」の架橋にご尽力されたとうかがっています。改めて経緯をお聞かせください。
当初から現在のような橋の架橋を想定されていましたか?架橋運動が進展した契機は何だったのでしょうか?

 (山本氏)
昭和45年頃から2年間を費やして歩道橋をかける案が出て、それは了承された。その時に長島からも車が通れる橋が欲しいと、園から要望があった。だからその案は無くなった。その2年後の昭和47年、長島架橋促進委員会がつくられて、国会議員に要望して国に要請されたがなかなか進展しなかった。国、県、町との三者協議会を開いたがこれも進展しない。
昭和55年に、当時の厚生大臣に交渉したことが報道されたけど、架橋運動は動かなかった。翌年の昭和56年、衆参両院議員の先生の尽力により予備調査費が認められ、昭和57年に地質調査を行い、昭和63年に開通しました。調査の時は、どこを通るか、ルートとか橋を架ける場所とかを決めないといけないから進まなかったが、橋本先生に任せたことで事が進んだんです。


▲邑久長島大橋と対岸の虫明地区

橋は兵庫県相生市で建設され、クレーンで海路を運ばれて来たとうかがっています。
橋の姿が見えた時はどのような思いだったのでしょうか?

 (山本氏)
海に浮かぶアーチ橋は山より大きく見え、明日来るのがわかりました。橋が到着した時は感動しました。あの時の思いっていうのは忘れていないですよね、私たちは。キャッチャーボート6、7隻で台船が入ってきた。小さなキャッチャーボートで押してきた。完全に止まってから、クレーンで作業していました。その様子を対岸から幼稚園の子どもたち、島から私たちが見ていました。
 
橋が架かってから30年を経て、改めて邑久長島大橋の意義をお聞かせください。
 (山本氏)
交通の便が良くなった。昔は島だったけど、橋が架かったことによって陸続きになって、いつでもふるさとに帰れるんだと。精神的に安堵感があったということは確かです。また、いつでも外に出られる。帰ってこられる。そして、職員の通勤圏内が広くなりました。昔は遠くて西大寺(岡山市東区)まで。今は津山市からも。気持ちの上で安心感があります。
 
2つの桟橋とはどのようなものでしょうか?なぜ、向かい合って同じような桟橋が2つあるのでしょうか?
 (山本氏)
私がここに来たときは患者に対する差別があった。職員と同じ桟橋を私たちは使えなかった。職員地帯は入ってもだめだった。理由として、患者地帯は汚染していると思われていたから。感染したらいけないから。分けられていたんです。逆に職員も患者地区に私服で入ったらいけない。それは徹底していました。


▲2つの桟橋

患者桟橋は段差があって狭くて、冬場は滑るので危なく、不便だったこともあり昭和40年頃に職員桟橋を使えるようになりました。
職員桟橋は船の乗り降りがしやすかったです。そこには職員が一人必ず当直で居ました。明かりがついていたから、当時は明かりに来るセイゴを釣って楽しんでいた。


▲カキ殻が無造作に置かれている崩れかけた患者桟橋

「解説」2つの桟橋:
邑久長島大橋が開通するまでは、療養所は島にあるため、海で隔てられていた。そのため、島へは対岸から船に乗って渡っていた。桟橋は入所者専用の「患者桟橋」と職員や乗客用の「職員桟橋」の2つがあり、昭和40年ころまでは入所者は「職員桟橋」を使うことは出来なかった。

少年少女舎とはどのようなものでしょうか?
 (山本氏)
中学3年までの子どもは必ず少年少女舎(双葉寮)に入っていました。大人と一緒に生活はしませんでした。昭和37年に中学校が閉校。その時に双葉寮がなくなり、大部屋が小部屋になる段階で双葉寮を女子寮にする案が出ました。そのため、閉校してから女子寮として使われていた。



▲入所した子どもたちが暮らした少年少女舎(双葉寮)


▲子どもたちが学んだ裳掛小・中学校第三分校

皆さんから寄せられた寄附金は、2つの桟橋の保全のための調査と旧少年少女舎修復のための調査費用の一部として活用されます。その意義についてお聞かせください。
 (山本氏)
私たちでは出来ないから、ありがたいと思っています。今後こういう形で整備されるなら、貴重なので残しておきたいと思う。
 (屋会長)
2つの桟橋は差別の象徴です。今であれば考えられないこと。一般の人が見てどう思うか。
人権差別を強調しているものです。また、少年少女が親と離れて生活しなければならなかったという事は、外国ではなかった。日本だけ。独特な国の差別。差別の象徴。怖い病気だからと差別された。怖い思いを植え付けて差別された。こういうことがあった事をみんなに理解してもらいたいと思います。

邑久光明園の現在 入所者数 92人 平均年齢86.0歳
納骨堂柱数 3213柱

(インタビュー:平成30年10月12日現在)
撮影 写真家 西 岳海



【寄附金の使途】
長島愛生園及び邑久光明園の歴史的建造物の補修、現状維持、原状回復の可能性を調査する事業を実施したいと考えています。

【長島愛生園】
①収容桟橋(現状維持、原状回復の可能性調査)
②監房(掘り返しの可能性調査)

【邑久光明園】
①2つの桟橋(現状維持、原状回復の可能性調査)
②旧少年少女舎(現状維持、原状回復の可能性調査)





日本で唯一。 2つの国立ハンセン病療養所を有する瀬戸内市。

瀬戸内市は全国で唯一、2つの国立ハンセン病療養所を擁する基礎自治体です。
「長島愛生園」は1930(昭和 5)年に日本初の国立ハンセン病療養所として、「邑久光明園」は室戸台風により大きな被害を受けた大阪市内の第3区府県立外島保養院が1938(昭和13)年に再興される形で、二園ともに現在の瀬戸内市邑久町虫明の長島に開設され、今日に至ります。
長島両園の入所者数は第2次世界大戦中には最大3,000 名を超えていましたが、現在では300名弱となり、平均年齢は85歳を超えています。
長島には歴史館などがあり、毎年多くの方が来られて、ハンセン病の歴史などについて学習されています。
2つの療養所にある歴史的建造物を未来に向け残す事によって、多くの人々にハンセン病問題に関心を持ってもらい、正しい知識を広めていくことでハンセン病問題の解決を目指していきたいと考えています。皆さまのご支援、ご協力を、何卒よろしくお願い申し上げます。

同じ過ちを繰り返さないために・・・将来世代が過去と対話できるハンセン病療養所と回復者の歴史を継承するため、瀬戸内市はハンセン病療養所内に存在する建造物群等を「ユネスコ世界文化遺産」として、ハンセン病回復者等が生きた証を示す資料等歴史的記録物を「ユネスコ世界の記録」としてそれぞれ登録することを目指す、特定非営利法人ハンセン病療養所世界遺産登録推進協議会を支援しています。


このプロジェクトの問い合わせ先
瀬戸内市役所 市民部市民課 人権啓発室
Tel.0869-22-3922
Fax.0869-22-3973
E-mail :jinken@city.setouchi.lg.jp


交通アクセス




[公共交通機関でのアクセス]
JR岡山駅から
JR赤穂線 上り(25分)邑久駅下車 徒歩5分
JR播州赤穂駅から
JR赤穂線 下り(44分)邑久駅下車 徒歩5分
自家用車等でのアクセス
広島方面から
国道2号岡山バイパスから岡山ブルーラインへ 瀬戸内ICで下り、北(瀬戸内市街方面)へ約3分
大阪方面から
山陽自動車道備前ICで下り、岡山ブルーラインへ 瀬戸内ICで下り、北(瀬戸内市街方面)へ約3分










 

ふるさと納税ガバメントクラウドファンディング(GCF) 「[ハンセン病の記憶を未来へ語り継ぐために、歴史ある建造物をこの地にのこしたい。] 」への支援メッセージ

ふるさと納税ガバメントクラウドファンディング(GCF) 「[ハンセン病の記憶を未来へ語り継ぐために、歴史ある建造物をこの地にのこしたい。] 」への支援メッセージ

2018.12.09
ハンセン病問題を風化させないために、私も歴史的建造物の保存を強く望みます。
微力ですが、支援させていただきます。
一日も早く達成されますよう祈っています。